関ヶ原駅に到着後、先ずは駅を出てどうしようか思案…
天下分け目と言っても、そこら中で切り合っていた訳でもないでしょうし、
土地勘も無いので、どうするべぇ、と思っていたら、観光案内所を発見。
よし、あそこでマップを貰おう、と歩いて行くと、ダダダダダッと、足音が。
見た所、利発そうな、小学生の女の子でした。
「何処に行くんですか?!」と大きく一声。怖気づいて、「い、いや、まだ決めてません…」と言うと、
「どうぞ!」とマップをくれました。その上、プチ観光案内まで…
あの時の、小学生さん、ありがとうございました。どうやら、関ヶ原は
かなり小さいお子さんでも、地理は堪能な様です。
とりあえず、教えて頂いた幾つかのスポットを回ります。
駅前の道路には、こんな感じで、東西両軍の旗が風にはためいていました。
奥は、毛利家の家紋だと思います。
関ヶ原駅から歩いて、7分ほどの所にあるのが、東首塚。
東軍勝利の後、首実験をされた後の西軍将兵の首級を祀った供養塚です。
その近くにある、井伊直政、松平忠吉陣跡。
井伊直政と言えば、徳川四天王の1人、彼の率いた家臣団は「
井伊の赤備え」
と呼ばれ(身に着けていた具足が赤かったのでこう呼ばれていたそうです)、恐れられたそうです。
最も、元は武田家の遺臣だった者を召し抱え、増強したので、別に井伊直政オリジナルではありません。
松平忠吉は、家康の息子です。たしか、9男だか、6男だか…養子に出されて、松平姓を名乗っていたんですね。
関ヶ原合戦の折り、「誰が一番槍を切るのか(先陣を切るのか)」という事を東軍内で、決める際、
井伊直政が先陣を切る、というのと、元は豊臣恩顧の武将である、福島正則が先陣を切る、というので
大変揉めたそうですが、結局、寝返られては堪らない。という事も含め、福島正則に落ち着きました。
そして、合戦当日、霧が深かった為、井伊直政と松平忠吉は、「偵察だから」と言って、西軍へ、鉄砲
を打ち掛け、結局先陣を取ってしまったっぽくなってしまい、そこから関ヶ原の合戦が始まりました。
二人とも割と出しゃばりですね。いや、やっぱり、根っからの東軍が切らないと、みたいなのもあったのでしょうが。
首洗いの古井戸。此処で、取って来た首級を洗ったんですね~。
そしてもうちょっと歩くと、見えるのが、徳川家康最後の陣地跡です。
昔は、野戦でも戦況によっては、陣を移動していた訳ですが、多分、
これは戦況が見えた時に、写したんだと思います。
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