新宮駅で地図を見た後、私は徐福公園を目指して歩きます。
といっても、もう、新宮駅から見えているくらい近いんですけどね。

これが徐福公園の入口。如何にもな中国様式の門が建っています。
周りは普通の建物ばかりなので、目立つといえば目立ちますし、
ベタと解っていながらも、そそられる門の形です。

物販所兼案内所。
徐福茶というお茶の販売や徐福にあやかったおみやげの販売、そして
何故かソフトクリームも売っています。

園内はどこまでも中国様式です。狛犬ですらあちら風の外見。

これは徐福像(左)と不老の池(右)。
不老の池は徐福に付き従った7人の重臣が持っていた徳
「和」「仁」「慈」「勇」「財」「調」「壮」を今に伝えているもので、
7本の石柱、そしてその後ろに7本の天台烏薬(という木)が
植えられています。
今更ながらですが、この公園の由来を…
『徐福は今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、
その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて
三千人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられています。
徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬」という薬木を発見しましたが、
気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、
ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等
の技術をこの地に伝えたと言われています。
特に熊野地域には徐福渡来の地として数々の伝承・史跡が残り、鎌倉時代
には文献に出てきます。新宮駅から東にわずか100mのところに「徐福の墓」
があり、蓬莱山南麓の阿須賀神社には「徐福の宮」もあります。
平成6年8月、「徐福の墓」を中心に極彩色豊かな中国風楼門を配した整備を
行い、「徐福公園」としてオープンしました。』
http://www.jofuku.or.jp/rekishi.htmより引用
私が昔、歴史漫画で読んだ限りでは
徐福はかなりの策士であり、野心を抱き自ら新しい国の王になろうと始皇帝に
「不死の霊薬を探してきます」と名乗り出て3千人の童男童女、一部の科学者
や作物の種、膨大な書物や絹、農耕具など、国と言うかコミュニティを作り上げる
のに必要な人員や物資を始皇帝に用意させ、そのまま船出をして日本に辿り着き、
現地人と接触、その後、秦に帰ることはなかった…
という流れだったのですが、辿り着いた土地が日本の何処かまでは、描かれていなかった
ので、当時は「飛行機も大した船もない中、大陸から日本に渡ってきたなんて!!」とかなり
興奮したもんでした。

これが徐福の墓です。といっても、そんな千年も前から此処にあるというのではなく、この石碑
は1736年に紀州藩の祖となった徳川頼宣によって建てられたものです。

七塚の碑。これは、徐福に付き従った7人の重臣の墓になります。
昔は七つの小円墳が徐福の墓を中心に北斗七星の形に墓が建っていたそうですが、
写真の物は大正5年に熊野地青年会が建てたものです。

徐福顕彰碑。徐福の功績を讃える碑です。
元は1834年に紀州藩が碑を建てようとしたのですが、航海の途中台風で碑が沈没。
現在のものは1940年に紀元2600年記念事業で再び建てられたものです。